正覚寺
正覚寺は、千葉県香取郡多古町にある日蓮宗不受不施派の寺院です。他宗の者からの布施を受けず、また他宗の者への供養もしないという教義により、江戸幕府から弾圧を受けていたため、江戸時代には自前の寺院を持つことが許されませんでした。そこで民家に隠し部屋をつくるなどして信仰を続け、明治時代に禁教が解かれてから、旧妙光寺を買い取って正規の寺院として再興したという経緯があります。
旅行先の地図
旅行先の概要
御本尊 | 三宝尊 |
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所在地 | 千葉県香取郡多古町島2320 |
交通 | 銚子連絡道路「横芝光IC」から車で約15分 |
拝観料 | 境内無料 |
駐車場 | 境内周辺に舗装された駐車場あり |
URL | 多古町>成等山正覚寺 |
連絡先 | 正覚寺 0479-76-5729 |
歴史・由来
正覚寺は、千葉県香取郡多古町にある日蓮宗不受不施派の寺院です。
不受不施派は他宗の者からの布施を受けず、また他宗の者への供養もしないという教義を持つ日蓮宗の一派です。文禄4年(1595)、豊臣秀吉が方広寺大仏殿千僧供養会を催そうとしたときに、京都妙覚寺の日奥上人が不受不施の教義をもとに出仕を拒否したことが、この宗派の起源とされます。
慶長4年(1599)、徳川家康は受不施派の京都妙顕寺・日紹上人と不受不施派の日奥上人を大坂城において対決させ、この「大阪対論」の結果として日奥上人は対馬に流罪(のち慶長17年に赦免)とされています。
その後の寛永7年(1630)にも受不施派と不受不施派の対立が激化したことから、身延山久遠寺・日暹上人を中心とする受不施派と、池上本門寺・日樹上人を中心とする不受不施派が江戸城で対論する「身池対論」が起こり、敗れた不受不施派の日樹上人が信州伊那に流罪となりました。
寛文9年(1669)には「不受不施之日蓮宗寺請ニ不可取事」として不受不施派は寺請を停止され、この「寛文の惣滅」以降はキリスト教と並ぶ「邪宗門」のひとつとして信者の捕縛などの弾圧が相次ぎましたが、千葉や岡山方面ではなおも信者が潜伏し、民家の天井裏に隠し部屋を設けて寺院代わりの「庵」とするなどして、秘密結社的に信仰を守り抜きました。
現在の千葉県香取郡多古町の一部にあたる下総国香取郡島村もこうした不受不施派の集落のひとつで、寛政6年(1794)の「多古法難」では本正院日誓が捕縛されて三宅島に流罪になり、他にも多数が投獄されています。
明治9年(1876)になって、ようやく明治新政府の教部省布達によって日蓮宗不受不施派の再興布教が差し許されたことを受けて、島地区では鎌倉末期に日蓮宗の日朝上人が開山したという受派の本覚山妙光寺の建物を明治39年(1906)に買い受け、改めて日蓮宗不受不施派の正覚寺としました。
なお、もとの妙光寺は長崎県長崎市(当時は西波杵郡上長崎村)に移転していますが、これは江戸時代から神仏混淆の七面宮があった場所に移転することで純粋な寺院化することを狙ったもので、今では紅葉の名所にもなっている七面山妙光寺がそれにあたります。
島地区の道路は高い生垣が廻らされた民家が両脇に建ち並んでいて迷路のように複雑ですが、室町時代の享徳の乱の際に合戦場となった平山城の「志摩城」(島城)が築かれていたという地形的特徴に加えて、江戸時代の不受不施派の禁制下で信者が取り締まりを逃れるため意図的に複雑にしたものといわれます。
車椅子で旅行するポイント
正覚寺 本堂 庫裡 鐘楼 山門 三十三番神 多古町農村交流センター 公園 大木商店 島農村公園 志摩城跡 JA多古町ライスセンター 島地区親水公園 道の駅多古 栗山川 「正覚寺」看板 ガソリンスタンド(JA多古町ジャスポート多古SS) 国道296号 千葉県道74号多古笹本線 道の駅多古交差点 |
移動のしやすさ
★★★★☆
バリアフリーの状況
正覚寺の正面山門や西側参道には階段があるが、正面右手に車道があるため、ここからであれば段差はなく、境内も平坦でそれほど広くはない。身障者用トイレは250メートル東側の島農村公園、または1.5キロ北側の道の駅多古にある。むしろ主要な道路から正覚寺までのアクセスがわかりにくく、途中に看板もあるが小さいので自動車からは目視しにくい。道幅の狭い既存集落内に迷い込むと戻れなくなるので注意のこと。
周辺の名所・観光スポット
道の駅多古あじさい館館
多古町を流れる栗山川のほとりにある道の駅。ふれあい市場では葉物野菜などの農産物や牛乳・アイスクリームなどの特産品を販売している。多古米や大和芋を使った食事を提供するレストラン「キッチンTAKO」も併設されている。道の駅外周には遊歩道が整備され、栗山川と一帯に広がる田園風景を眺望できる。
【身障者用駐車場・トイレ・スロープ・エレベーターあり】
■参考リンク:道の駅多古あじさい館