上杉家廟所
上杉家廟所は、米沢藩の歴代藩主らを埋葬した墓地で、国指定史跡となっています。上杉家の家祖である上杉謙信の遺骸を中心として、11代藩主斉定までの廟屋が立ち並んでおり、時代によって葬法や廟屋の建て方も微妙に異なっています。この廟所の入口には、上杉家の菩提寺である法音寺もあります。
旅行先について
地図
旅行先の概要
被葬者 | 上杉家初代謙信公から12代斉定公までおよび世子上杉顕孝公 |
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所在地 | 山形県米沢市御廟1-5-30 |
交通 |
JR米沢駅からタクシーで約15分 米沢市民バス(循環左回り・右回り)「御廟所西口」停留所下車、徒歩で約5分 |
拝観料 | 一般350円、高校生・大学生200円、小学生・中学生100円 |
駐車場 | 正面左側に舗装済みの無料駐車場があります |
URL | 米沢藩主上杉家廟所 |
連絡先 | 米沢藩主上杉家廟所 0238-23-3115 |
歴史・由来
上杉家廟所は、「廟」というよりも米沢藩の歴代藩主らを埋葬した「墓」に近いもので、江戸時代の歴代藩主の廟が一つの場所に並置されるのはきわめて珍しいとして、「米沢藩主上杉家墓所」の名で国の史跡にも指定されています。
上杉家廟所には、上杉家の家祖である上杉謙信(上杉輝虎)の遺骸を納めた霊柩を中心として、2代・上杉景勝、10代・上杉治憲(上杉鷹山)をはじめ、11代・上杉斉定まで、および11代・上杉治広の養嗣子で家督相続前に夭折した上杉顕孝といった、上杉家代々の遺灰、遺骸を納めた廟屋が建ち並んでいます。
並び順は代数ごとに原則として左右交互ですが、2代・上杉景勝から8代・上杉重定までは火葬されて遺骨は高野山清浄心院に納骨、この場所には遺灰や衣類を納めて五輪塔を置き、その上に入母屋造りの廟屋を建てたものです。
いっぽう、質素倹約を旨とし、「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成けり」の名言で知られる9代・上杉治憲(上杉鷹山)、その実子の上杉顕孝から12代・上杉斉定までは、土葬で遺骸を納め、宝形造りの廟屋を建てたものとなっていて、時代による変遷があることがわかります。
なお、明治時代以降の上杉家当主の墓所は東京にありますが、14代・上杉茂憲は沖縄県令としての功績により、特に上杉家廟所内に記念碑が設けられています。
初代・上杉謙信の遺骸については、甲冑姿で甕に入れ、その中に漆を流し込んで密閉し、居城であった春日山城内の不識庵に安置していたところ、2代・上杉景勝が越後90万石から会津120万石、次いで徳川家康の会津征伐後に米沢30万石に移封となった際に運びだされ、それ以降は松が岬城(米沢城)本丸の「御堂」に安置されて丁重に祀られたといいます。
しかし、明治初期の廃城令によって松が岬城が廃城とされ、しかも上杉謙信が新たに城内に創建された「上杉神社」の祭神として神式で祀られることになると、城内の「御堂」にあった上杉謙信の霊柩は、明治9年(1876)に歴代藩主の眠る上杉家廟所へ移されることとなりました。
それぞれの廟屋の前にあった拝殿の建物は明治時代の再整備で取り壊されたものの、家臣が寄進した多数の灯籠は現在も残され、また敷地周囲にも空堀や土塁がめぐらされるなど、固い守りがあったことがうかがわれます。
上杉家廟所門前には、越後から米沢まで移転してきた上杉家の菩提寺であり、「能化衆」として江戸時代を通じて上杉謙信の御堂に勤仕してきた真言宗の法音寺も建っています。
車椅子で旅行するポイント
移動のしやすさ
★★★★☆
バリアフリーの状況
入口に舗装駐車場と身障者用トイレがあり、移動はスムーズです。受付には貸出用車椅子もあります。廟屋に至る参道は玉砂利ですがおおむね平坦です。併設される「上杉家墓所資料館」は階段に付き車椅子不可です。
周辺の名所・観光スポット
伝国の杜
松が岬城(米沢城)の目の前にある、米沢市上杉博物館、置賜文化ホールの合築施設。博物館の常設展では、上杉氏の米沢入部にはじまり、江戸時代を代表する名君である上杉鷹山を紹介するシアター、「上杉本洛中洛外図屏風」のバーチャルウォーク体験などのコーナーがあります。
【身障者トイレ・エレベーター・身障者用駐車スペース・車椅子貸出などがありバリアフリー化されている。】
■参考リンク:伝国の杜