常陸国分寺
2016年8月8日寺院
常陸国分寺は、奈良時代に聖武天皇の詔によって全国に建立された国分寺の後継にあたります。かつて金堂があった位置には薬師堂が建てられ、境内地からは礎石や軒丸瓦なども発掘されており、近くの「常陸国分尼寺跡」とあわせて国の特別史跡として指定されています。また、江戸時代に都々逸節を大成した都々逸坊扇歌が石岡の地で亡くなったことから、境内には後に「扇歌堂」も設けられました。
旅行先の地図
旅行先の概要
御本尊 | 薬師如来 |
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所在地 | 茨城県石岡市府中5丁目1-5 |
交通 |
JR常磐線「石岡駅」から徒歩約10分 常磐自動車道「千代田石岡IC」から車で約10分 |
拝観料 | 無料 |
駐車場 | 境内に舗装された無料駐車場あり |
URL | 石岡市>常陸国分寺跡 |
連絡先 | 浄瑠璃山東方院国分寺 0299-22-2827 |
歴史・由来
常陸国分寺は、天平13年(741)の聖武天皇の国分寺建立の詔によって、全国66か所のうちの一つとして建てられた国分寺(金光明四天王護国之寺)の後継にあたる、茨城県石岡市にある真言宗の寺院で、正式には「浄瑠璃山東方院国分寺」と称されています。
もとの国分寺は、天平勝宝4年(752)に創建されたと伝えられており、平安時代の『延喜式』主税帳に「常陸国正税公廨各五十万束。国分寺料六万束。……」(近隣では下野国・上総国が国分寺料4万束、上野国・下総国が5万束)と記載があることからも、他国に比べて財政規模の大きな国分寺であったことがわかります。
また、『扶桑略記』によれば、仁和4年(888)、家が裕福であった常陸国書生(下級役人)の飛鳥貞成が国分寺で100人の能書を雇って法華経1000部を写経して供養を行ったことが記されています。
昭和の発掘調査によって、当時の常陸国分寺の軒丸瓦、礎石や基壇の位置などが確認されており、それによれば、かつては中門・金堂・講堂が一直線に並び、中門と金堂をつなぐ回廊が設けられており、現在の薬師堂の場所に金堂が、現本堂・庫裡の間に鐘楼があったことが知られます。
常陸国分寺の七重塔の位置については不明ながら、現在の境内から東に150メートルほど離れた「ガラミドウ(伽藍御堂)」という地名のある宅地に求める説があるほか、石岡の豪商の屋敷で庭石として使われていた巨大な礎石が常陸国分寺の七重塔の心礎であるとわかり、戦後に境内に移設されています。
現在の境内と重なるこうした旧国分寺の遺構は、北西に800メートルほど離れた石岡市立府中小学校の裏手にある「常陸国分尼寺跡」の遺構とともに、国の特別史跡としての指定を受けています。
この常陸国分寺は、平将門の乱をはじめとする戦乱で衰退し、江戸時代には付近にあった千住院という寺院の末寺となりますが、千手院も大正時代に国分寺と合併して廃寺となってしまったため、境内には唯一、寛保3年(1743)に建てられた千手院山門が残され、石岡市の指定文化財となっています。
また、江戸時代に都々逸節を大成した都々逸坊扇歌は、「上は金、下に杭なし吾妻橋」という歌で幕政批判を行ったとして江戸を追放となり、その後は姉の嫁ぎ先である府中(石岡)の旅籠・真壁屋に身を寄せるものの、ここで病を得て亡くなり、おおやけに知られることのないまま国分寺の墓地にひっそりと埋葬されます。
その後、昭和6年(1931)になってから、扇歌80周年忌を記念して、国分寺の境内に「扇歌堂」という供養堂が建てられ、こちらも現在は石岡市の指定文化財となっています。
境内にはそのほか、延暦元年(782)に筑波山中禅寺を開いた徳一が筑波山の四面を守護するために安置したとされる「筑波四面薬師」の一つである北面の薬師堂(西面:椎尾山薬王院、南面:東城寺、東面:菖蒲沢薬師堂、北面:山寺(石岡市小幡十三塚地内にある廃寺))が明治時代に移築されています。
車椅子で旅行するポイント
移動のしやすさ
★★★★☆
バリアフリーの状況
常陸国分寺そのものには特別な身障者用の設備はないが、近くの「いしおかイベント広場」に多目的トイレがあるほか、境内も入口から後方の墓地に近いところまで舗装道路が延びているため、ひととおり回るのに大きな支障はない。ただし、堂や山門の手前は段差となっている。
周辺の名所・観光スポット
常陸風土記の丘
古代律令制の時代に常陸国府が置かれた石岡の歴史的資源を活用した余暇公園で、石岡のおまつりをイメージした「日本一の獅子頭」を展望台としているほか、貴重な常陸国計帳を含む漆紙文書が出土した鹿の子遺跡や古代家屋などを一部復元している。また、園内は池を中心にソメイヨシノや大賀ハスを植栽した花の名所でもある。
【身障者用トイレあり。石岡市内在住の障害者手帳所持者は無料】
■参考リンク:茨城県>常陸風土記の丘
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