善光寺

2013年6月19日寺院

善光寺は、長野県長野市の寺院で、御本尊は秘仏の一光三尊阿弥陀如来です。『善光寺縁起』では皇極天皇元年(642)の創建と伝えています。戦国時代には戦火を逃れて本尊が各地を流浪し、慶長3年(1598)にようやく信濃に遷座します。本堂は東大寺大仏殿や三十三間堂に次ぐ規模の木造建築で、国宝に指定されています。本堂地下の真っ暗な回廊を巡る「戒壇巡り」も古くから有名です。

旅行先について

地図

旅行先の概要

御本尊 一光三尊阿弥陀如来
所在地 長野県長野市大字長野元善町491-イ
交通 JR信越本線「長野駅」からアルピコ交通路線バス又は長野市循環バスぐるりん号で約15分、「善光寺大門」下車、徒歩約5分。
上信越自動車道「長野IC」から車で約40分。
拝観料 無料。
ただし、「戒壇巡り(内陣券)」は大人500円、高校生200円、小中学生50円。
駐車場 寺院裏手(北側)及び西側の公道沿いに舗装された有料駐車場あり。
URL
連絡先 善光寺事務局 026-234-3591

歴史・由来

善光寺は、長野県長野市の寺院で、御本尊は百済から将来されたとされる秘仏の一光三尊阿弥陀如来です。

『善光寺縁起』の伝えるところでは、蘇我氏と物部氏の崇仏廃仏論争の対象となり難波の堀江(大阪)に捨てられていたこの仏像を、本田善光が水中から見つけて故郷の信濃国麻績(おみ)の里に持ち帰って安置し(長野県飯田市の元善光寺)、のち皇極天皇元年(642)に至り、芋井の里と呼ばれていた現在の場所に堂宇を建てたのがはじまりといいます。

戦国時代には戦火を逃れて本尊が各地を流浪し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら時の権力者の手を経て、慶長3年(1598)にようやく信濃に遷座します。現在の山梨県甲府市にある甲斐善光寺は、この過程で建立されたものといわれています。

現在の善光寺本堂は、宝永4年(1707)に再建された、間口24メートル、高さ26メートル、奥行き53メートルの江戸中期を代表する寺院建築で、国宝に指定されています。国宝である木造建築としては、東大寺大仏殿、三十三間堂に次ぐ規模をもち、間口に対して奥行きが広いことから、その形をとって「鐘木(しゅもく)造り」とも呼ばれます。

灯りのない本堂の真っ暗な回廊を巡り、本尊の真下にあるという錠前を触って本尊と結縁する「戒壇巡り」は古くから知られており、今日でも参拝客に有料で開放されています。【照明は一切なく車椅子不可】

車椅子で旅行するポイント

【1】仁王門前は階段だが左手にスロープ状の舗装された歩道あり。
【2】参道は石畳が続き、両脇に宿坊や土産物店がある。山門(三門)の正面には階段がある。
【3】山門の右手に車椅子の表示と身障者トイレあり。迂回路につき右へ進む。
【4】トイレの先からいったん境内を出て公道の歩道を進む。
【5】公道からふたたび境内に入ると善光寺本堂。本堂正面は階段あり。
【6】本堂右に車椅子の表示あり。表示に従い参道右手の石畳を進む。
【7】本堂右横にスロープがあり、さらに堂内まで車椅子で移動可。
【8】スロープの向かいには身障者トイレあり。
【9】駐車場は本堂裏手(又は西側)の公道沿いにあり。舗装済。
【10】駐車場からはスロープ状の通路と石畳を通って裏から境内へと移動。





境内配置図 [凡例]
本堂 鐘楼 事務局 ぬれ仏 六地蔵 山門 経蔵 善光寺史料館 日本忠霊館 大勧進 大本願 仁王門 城山小学校 東山魁夷館 派出所 善光寺北交差点 善光寺西交差点 長野県道37号長野信濃線

移動のしやすさ

★★★★★

バリアフリーの状況

善光寺は境内に至るまでの道のりに高低差がある部分が見られるが、境内に入れば基本的には平坦な地勢で、身障者用トイレやスロープなども用意されている上、主要な参道は石畳などで舗装されている。特に本堂の上まで移動ができる木製のスロープが付いており、タイヤを拭いて中に入れる点は評価できる。

周辺の名所・観光スポット

川中島古戦場史跡公園

武田信玄と上杉謙信との間で12年にわたり5度の合戦が繰り広げられた川中島の古戦場跡を公園として整備したもの。園内には八幡社や信玄が築いた土塁が残る。隣接の長野市立博物館では、長野盆地の歴史と生活をテーマに出土品や資料を展示し、プラネタリウムも併設している。【園内はほぼ平坦で身障者トイレあり。博物館も身障者トイレ・スロープ・エレベーターあり、障害者は入館無料。】

■参考リンク:川中島古戦場史跡公園

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このページの執筆者
@tabisora110