佐竹寺
2018年4月25日寺院
佐竹寺は、茨城県常陸太田市にある真言宗の寺院で、「坂東三十三観音霊場」の第22番札所です。平安時代、花山法皇が坂東巡礼の折、勅願により元密上人が開基したとされています。また、戦国大名として有名な佐竹氏の初代・昌義がこの寺で不思議な竹を見つけたことから、はじめて「佐竹」の名字を称したという伝説もあります。現在の茅葺きの本堂は、兵火で焼失後に佐竹氏により再建されたもので、火頭窓など桃山建築につながる意匠が採り入れられており、国重要文化財に指定されています。
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旅行先の地図
旅行先の概要
御本尊 | 十一面観世音菩薩 |
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所在地 | 茨城県常陸太田市天神林町2404 |
交通 |
JR水郡線「常陸太田駅」から常陸太田市民バス(松栄・佐竹線)経由で約12分、「天神」停留所下車(本数僅少注意) 常磐自動車道「那珂IC」または「日立南大田IC」から車で約20分 |
拝観料 | 無料 |
駐車場 | 山門手前に砕石が敷かれた無料駐車場あり |
URL | 坂東三十三観音>佐竹寺 |
連絡先 | 妙福山明音院佐竹寺 0294-72-2078 |
歴史・由来
佐竹寺(さたけじ・さたけでら)は、茨城県常陸太田市にある真言宗智山派の寺院です。
平安時代の寛和元年(985)、花山天皇の勅願により元密上人が開基したというのが一般的な由緒とされていますが、他に大同2年(807)に徳一が創建したという異伝もあります。
江戸時代に亮盛が著した『三十三所坂東観音霊場記』によれば、坂東巡礼に訪れた花山法皇を数多の神々が出迎え、「かつて日本武尊は天神七代(天地開闢の始めに現れた国之常立神から伊邪那美命までの七代の神)を祀り夷賊を退治したが、今や荒れ果てて鳥獣の住処と化しているので、再び天神を奉斎してほしい」と告げたため、従僧の元密上人に聖徳太子が手ずから彫ったという十一面観音の像を託し、この地に堂宇を建てて安置させたのがはじまりとされています。
また、佐竹寺63代住職・阿闍梨宥音が記した『佐竹寺観音縁起』では、有力大名・佐竹氏の初代とされる源昌義が、この寺で20尋の長さに節が1つだけしかない珍しい竹が生えているのを見つけ、「是れ我が出世の瑞応なり」として「佐竹」という名字を名乗り、寺領300貫を寄進してますます信心に励んだという伝説を載せています。
もっとも、同じく江戸時代に中山信名が編纂した『新編常陸国誌』には、饒速日尊の天孫降臨に供奉したとされる狭竹(さたけ)物部の一族がこの地に定住して祖神(物部天神)を祀ったために「佐竹」という地名が生まれ、後にやってきた常陸源氏がここを拠点としたので名字に使われたと考察しています。
佐竹寺は当初、鶴池の後ろの観音山の嶺にあり、文永6年(1269)に5代当主の佐竹長義が醍醐寺三宝院末の真言宗の寺院として復興し、佐竹氏代々の菩提寺であるとともに、宝蔵院、歓喜院ほか6つの子院を抱える大寺院として栄えていたといいます。
戦国時代の天文12年(1543)には兵火により堂宇が焼失しますが、その後天文15年(1546)に佐竹氏18代当主・佐竹義昭が居城・太田城の裏鬼門除けとして現在地に再建しており、寄棟造り・茅葺きの本堂はこのときのものとされています。
江戸時代には関ヶ原の戦いで日和見的な態度をとった佐竹氏は秋田に転封となり、徳川将軍家からはわずかに朱印地8石を寄進されただけでしたが、「坂東三十三観音霊場」の第22番札所として、安産・厄除けの御利益で庶民の参拝が盛んになりました。
明治以降は廃仏毀釈の影響により寺勢は衰え、しばらく無住となっていましたが、正面の火頭窓や円窓などが特徴的な本堂は桃山建築につながる希少性が評価され、当時の特別保護建物の指定を受けて国費をもって修復が行われ、現在も国の重要文化財に指定されるなどしています。
車椅子で旅行するポイント
本堂 稲荷堂:豊川稲荷を勧請。 山門:建築は昭和15年再建だが仁王像は江戸中期の宝永年間のもの。 寺務所・納経所 手水舎 墓地 天神バス停 稲村神社:古代の久自国造が祖神の饒速日尊を祀ったという延喜式内社。のち徳川光圀が整備。 馬坂城址:平安末期に佐竹昌義が築城。北は鶴が池、南は山田川を臨む天然の要害。 太田市街 天神谷津の美田 道の駅ひたちおおた 茨城県道61号日立笠間線 |
移動のしやすさ
★★★☆☆
バリアフリーの状況
佐竹寺は正面の山門脇に駐車場があるが、山門は石段なので右手に迂回して山門脇から境内に入る。参道部分はコンクリートで舗装されている。本堂は参道よりも1段高く、賽銭箱はその上にある。身障者用トイレは境内にはないので、利用するとすれば県道の藤田町交差点を折れて6キロ先の国道349号バイパス沿いの「道の駅ひたちおおた」まで移動する必要がある。
周辺の名所・観光スポット
西山の里 桃源
一般に「水戸黄門」として知られる水戸藩2代藩主・徳川光圀の隠居所「西山荘」の入口にある休憩施設。館内には飲食コーナーや物産コーナー、展示コーナー、観光案内コーナーなどがあり、隣接して花菖蒲などの既設の花々が楽しめる園池が整備されている。「西山荘」(西山御殿)は茅葺き・平屋建てで書斎もわずか3畳と、徳川御三家の大名クラスとしては似つかわしくない質素なつくりで、光圀はここで紀伝体の歴史書『大日本史』の編纂に努め、後の「水戸学」の形成に大きな影響を与えた。
【身障者用トイレ・駐車場・スロープ・車椅子貸出(館内)あり。なお、西山荘の内部は階段路があり移動困難。】
■参考リンク:西山の里桃源
@tabisora110