真田神社
真田神社は、長野県上田市にある神社です。難攻不落として知られる真田昌幸が築城した上田城の中に建てられており、真田・仙石・松平の歴代城主を祭神として祀っています。拝殿裏には上田城の抜け穴伝説のある大井戸・「真田井戸」があります。
旅行先について
地図
旅行先の概要
御祭神 | 真田・仙石・松平の歴代上田城主 |
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所在地 | 長野県上田市二の丸1-12 |
交通 |
JR・しなの鉄道・上田電鉄「上田駅」から徒歩約10分 長野自動車道「上田菅平IC」から車で約15分 |
拝観料 | 無料 |
駐車場 | 上田城跡公園駐車場として公園東側【市民会館前、身障者用区画あり】、公園南側【石垣下、境内へは石垣を登る階段路】にそれぞれ無料の舗装駐車場あり |
URL | 真田神社 |
連絡先 | 真田神社 0268-22-7302 |
歴史・由来
真田神社は、真田神社は、長野県上田市の神社で、上田城内の旧跡内に鎮座しています。
上田城は、天正11年(1583)に真田昌幸が千曲川沿いの要害の地に築いたもので、土塁や石垣に覆われ、特に千曲川に面した南部には断崖絶壁が迫っています。
「甲州征伐」により武田氏が滅亡すると、これまで武田氏の領地だった甲斐・信濃・上野などの諸国は織田氏の支配するところとなりました。ところが、ほどなく「本能寺の変」により織田信長も亡くなったため、一気に情勢は不安定化し、北条・上杉・徳川といった周辺大名がこれらの地域の覇権確保に乗り出す「天正壬午の乱」が勃発します。
その過程で起きた天正13年(1585)の「第一次上田合戦」では、上田城に籠城した城主の真田昌幸が、上杉の援軍を受けつつも寡兵をもって徳川家康の大軍を撤退させました。
続く慶長5年(1600)の「第二次上田合戦」でも、上田城に籠城した真田昌幸は、関ヶ原に向けて中山道を進んできた徳川秀忠の軍勢を足止めし、「関ヶ原の戦い」への遅参を招くなど大きな活躍をしています。
江戸時代に入ると、真田氏の転封により上田城は仙石氏、次いで松平氏の居城となりました。現存する上田城本丸の櫓なども仙石忠政が城主だったころに再建されたものです。
明治時代に入ると上田城は廃城となり、国有化された敷地は入札で一般に払い下げられることになりましたが、本丸の大部分の土地は常盤木村(今の上田市)の丸山平八郎によって買い取られました。
明治12年(1879)、上田城本丸に旧藩主を祀る神社を建立しようとする動きが旧藩士の中から持ち上がりました。丸山平八郎は旧藩主への報恩のため神社建設用地を寄付することになり、ここに初代上田藩主・松平忠周(ただちか)ら歴代藩主を祀る「松平(しょうへい)神社」が創建されました。
また、当初は植物園にされる予定だった境外の土地も、上田城保存のためには一般開放される遊園地(公園)にしたほうがよいとの意見が採用され、こちらも丸山の寄付と有志の募金により、明治時代にはすでに神社付属の公園として植樹などの整備がされています。
「松平神社」は、戦後の昭和28年(1953)4月には、松平氏のみならず真田・仙石・松平の歴代城主すべてを合祀する「上田神社」となりました。さらに昭和38年(1963)11月には「真田神社」と改称して現在に至ります。
この神社は難攻不落の上田城にあることから、試験に落ちないための神頼みとして受験生や就活生に人気があり、社務所で頒布されるお守りにも「不落城」と書かれています。また、上田城の登城記念の「御城印」も、観光協会とともにこちらの神社で取り扱っています。
本丸東虎口の復元された櫓門の先にある真田神社の境内裏手には、「真田井戸」と呼ばれる大井戸があり、城外の太郎山のほうまで抜け穴が続いているという伝説があります。
車椅子で旅行するポイント
周辺の名所・観光スポット
上田城跡公園
天正11年(1583)真田昌幸が築城した平城で、徳川氏の軍勢を2度撃退した堅城として知られる。現在は公園として整備され、東虎口櫓門などが復元されているほか、二の丸の堀跡がけやき並木の遊歩道となっている。また、市立博物館や市民会館なども立地している。
【身障者用トイレ・駐車場・スロープあり】
■参考リンク:上田市>上田城総合サイト
別所温泉
上田市西部にある温泉街で、古くは「七久里の湯」と呼ばれ清少納言の『枕草子』にも見える名湯。泉質は単純硫黄温泉で、弱アルカリ性が古い角質層を軟化させ美肌に効果があるという。周辺一帯は「塩田平」と呼ばれ、国宝八角三重塔がある安楽寺、平安初期開創の北向観音など名のある神社仏閣が多い。
【バリアフリー対応可能の宿泊施設あり】
■参考リンク:信州最古の温泉 別所温泉