八槻都々古別神社

八槻都々古別神社

2016年5月28日神社

八槻都々古別神社(つつこわけじんじゃ)は、福島県東白川郡棚倉町にあり、陸奥国一宮となっています。日本武尊東征のときに味耜高彦根命を祀ったのがはじまりとされており、豊作を祈念して田植えの所作を採り入れた神楽を奉納する「御田植祭」は、国の重要無形民俗文化財に指定されています。久慈川沿いに点在する「近津三社」のひとつの「中之宮」にも位置づけられます。

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旅行先の地図

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旅行先の概要

御祭神 【主祭神】味耜高彦根命 【配祀神】日本武尊
所在地 福島県東白川郡棚倉町八槻字大宮224
交通 JR水郡線「近津駅」から徒歩で約10分
「近津駅前」から福島交通バス経由で約2分、「八槻神社」停留所下車
拝観料 無料
駐車場 神社鳥居前および国道118沿いに砕石敷の無料駐車場あり
URL
連絡先 都々古別神社(八槻) 0247-33-3505

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歴史・由来

八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)は、福島県東白川郡棚倉町にある神社で、陸奥国一宮とされる延喜式内社です。

日本武尊が東征し、八溝山にこもる蛮族を平定しようとした際、弓で矢を放ち、その矢が落ち着いた場所、すなわち矢着(八槻)に社殿を建てて味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を祀り、勝利したのが創建の由来であるといいます。

のちに源義家が奥州征伐の際、千度戦って千度勝ったという日本武尊の神威により、「近津大明神」と称したともされています。

久慈川の流域には、このほかにも棚倉町字馬場に別の都々古別神社(馬場都都古和氣神社)があるほか、かつては陸奥国白河郡に属していた茨城県久慈郡大子町下野宮に近津神社があり、馬場を「上之宮」、八槻を「中之宮」、下野宮を「下之宮」として、これらを「近津三社」と総称することがあります。

八槻都々古別神社は、中世から近世にかけて武家の崇敬を受け、白河結城氏、佐竹氏、水戸徳川氏などからの寄進を得ているほか、別当寺の大善院は「小先役」という地位で周辺の修験者を組織化して勢力を振るい、その威勢を示す宮司で別当である八槻家の邸宅(八槻家住宅)は福島県重要文化財となっています。

この八槻都々古別神社で旧暦の1月6日に行われている「御田植祭」は、せりふと田植えの所作などを交え、狂言のようにユーモラスに神楽を舞い、最後に「中飯」(ちゅうはん)と称した切り餅を見物客に投げて終わるもので、室町時代以前にさかのぼる形態を有する貴重な民俗行事として、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

また、12月の第2金曜日から日曜日にかけては「霜月大祭」が行われ、「八槻市」として棚倉町特産のゆずやしょうがの即売がありますが、かつては「ツツコ」と称する藁苞(わらづと)に稲籾を入れて交換する風習があったといい、「御田植祭」とあわせて、農業の守護神としての性格がうかがわれます。

車椅子で旅行するポイント

yatsuki_tsutsukowake_shrine_1.jpg 【1】国道118号沿いや鳥居前に砕石敷の無料駐車場あり。脇の観光案内所は多目的トイレを併設する。
yatsuki_tsutsukowake_shrine_1-1.jpg 【1-1】多目的トイレ内部
yatsuki_tsutsukowake_shrine_2.jpg 【2】八槻都々古別神社の正面鳥居。石畳と砕石敷との間の擦り付け部分に若干段差はあるが、石畳の上を移動できる。
yatsuki_tsutsukowake_shrine_3.jpg 【3】石畳を進むと随神門があり、ここに1段の段差があり、さらに門の敷居があるため、車椅子では先に進めない。
yatsuki_tsutsukowake_shrine_4.jpg 【4】門の正面がちょうど拝殿となっているので、いちおう【3】の位置からでも拝殿のようすを眺望できる。


八槻都々古別神社境内図

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境内配置図 [凡例]
本殿 拝殿 神饌所 祓所 随身門 社務所 手洗 皇朝工祖神社 熊野神社 北野神社 夫婦杉 寅卯神社 久慈川 八槻神社バス停 八槻観光拠点施設(観光案内所こんこん) 国道118号 ファミリーマート棚倉町近津店 棚倉市街 八槻家住宅

移動のしやすさ

★★★★☆

バリアフリーの状況

八槻都々古別神社の入口には砕石敷の駐車場があり、境内にすぐアクセスできる。隣接地には棚倉町の観光拠点施設もオープンし、多目的トイレを併設する。参道途中まで石畳があるが、随身門に敷居があるため、車椅子のままでは玉垣を越えた先の拝殿にまでは進めない。明治の神仏分離によって仏教関連のものが除却されたため、現存する建造物は少ないが、社殿の背後は鬱蒼とした杜につつまれていて雰囲気がある。

周辺の名所・観光スポット

棚倉城跡・時の鐘

陸奥棚倉5万石を領した丹羽長重が、ここに鎮座していた近津明神(都々古別神社)を馬場に遷宮した上で築城をはじめた平城で、寛永4年(1627)に完成したものの、丹羽長重自身は完成前に陸奥白河10万石に転封となり、城主は内藤信照に交代している。
その後何度も城主が交代し、最後の城主は阿部正静となったが、戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟に加盟したため、慶応4年(1868)に板垣退助率いる官軍「迅衝隊」の手によって落城した。
現在は本丸と水掘が「亀ヶ城公園」として整備され、春の桜の名所にもなっている。
入口付近の町道沿いには、棚倉町の友好都市・埼玉県川越市の「時の鐘」を模したモニュメントが建つ「時の鐘ポケットパーク」がある。
【「時の鐘】下に身障者用トイレあり】

■参考リンク:棚倉町観光協会>棚倉城跡(亀ケ城公園)

 

このページの執筆者
@tabisora110