大光院(子育て呑龍さま)

2018年8月10日寺院

大光院は、群馬県太田市にある浄土宗の寺院です。徳川家康が先祖にあたる新田義重を供養する目的で創建したことから、「義重山」の山号があります。浄土宗の学問所「関東十八檀林」のひとつとしても栄えました。初代の呑龍上人は捨て子や生活困窮者の子供を引き取り、弟子として養育していたため、現在でもこの寺院は「子育て呑龍」「呑龍さま」と通称され、安産・子育て祈願の御利益で親しまれています。

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旅行先の地図

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旅行先の概要

御本尊 阿弥陀如来
所在地 群馬県太田市金山町37番8号
交通 北関東自動車道「太田桐生IC」から車で約10分
拝観料 無料
駐車場 境内入ると未舗装の駐車スペースがあるほか、周囲に太田市が設置した舗装済みの無料観光駐車場がある。
URL
連絡先 大光院 0276-22-2007

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歴史・由来

大光院は、群馬県太田市にある浄土宗の寺院です。

もともと大光院は、徳川家康が先祖として崇める新田義重が法然上人に帰依して寺尾城(現在の太田市寺井町、高崎市寺尾町など諸説あり)に建てた寺院といいますが、時が下って南北朝動乱で当主の新田義貞以下が戦死して新田家が没落すると、この寺院も荒廃に任せたままとなってしまいます。

慶長8年(1603)、徳川家康は朝廷に奏請して新田義重に鎮守府将軍の称号を贈り、次いで慶長16年(1611)、幕閣の土井利勝や成瀬正成、芝増上寺の存応和尚(普光観智国師)に命じてゆかりの地を捜索させるとともに、新たに寺院を建立するのにふわさしい適地を選ばせます。

慶長18年(1613)、開山として存応和尚の「四哲」の一人とされる呑龍上人が招かれ、新田義重を供養する目的で創建されたのが今の大光院です。正しくは「義重山新田寺大光院」といいますが、これらは新田義重の諱や名字、法号にそれぞれ由来しています。なお、一般の寺院では山号・院号・寺号の順番ですが、大光院については江戸時代から山号・寺号・院号の順番でいうことがあります。

こうした経緯から大光院は寺領として300石の寄進を受け、本堂や庫裏、大方丈、小方丈などのさまざまな建築物からなる伽藍が整備され、浄土宗の学問所である「関東十八檀林」のひとつとしても栄えました。

初代の呑龍上人は武蔵国埼玉郡一ノ割村(現在の埼玉県春日部市)の出身で、増上寺で修行の末に大善寺(現在の東京都八王子市。この寺院も通称「呑龍さま」と呼ばれている。)の住持となりますが、徳川家康の命によって大光院に移ります。

当時は生活困窮のために捨て子や間引きが跡を絶たず、呑龍上人はこれらの子供を引き取って、寺領からの収入の多くを割いて、弟子という名目で7歳になるまで養育していたことから、俗に「七ツ坊主」という言葉が生まれるようになったといいます。もっとも芝増上寺界隈でいう「七ツ坊主」は、七ツ時(午後4時ごろ)に拍子木を打ちながら托鉢に出る僧侶の集団を指しています。

ほかにも親の病気を治そうと国禁を犯して鶴を狩猟した源次兵衛を匿い、幕府の譴責を受けたため、源次兵衛と一緒に寺を抜け出して信州小諸の仏光寺で逃亡生活を送り、観智国師の遺言により元和元年(1621)に赦免され再び寺に戻ったという逸話もあり、現在でも大光院は通称「子育て呑龍」「呑龍様」として、安産・子育て祈願の御利益で親しまれています。

戦前・戦中に東洋最大といわれた中島飛行機が皇紀2600年(1940)に開発した帝国陸軍の一〇〇式重爆撃機は「呑龍」の愛称で呼ばれていますが、これも中島飛行機の太田製作所がこの地にあった縁で、寺院の通称の「呑龍様」から拝借したものといいます。

境内の高台には寺尾城から運ばれたという古い宝篋印塔が新田義重御廟として残るほか、その傍らに呑龍上人御廟、さらに孝子源次兵衛の墓があります。また、元和元年(1615)の大阪夏の陣における大坂城落城の日に上棟したことから「吉祥門」と名付けられた山門、呑龍上人お手植えと伝わる枝ぶりのよい「臥龍の松」なども見ものです。

車椅子で旅行するポイント

大光院_1.jpg 【1】大光院正面の吉祥門には階段があるが、脇に自動車用の入口もあり、ここから境内に進める。
大光院_2.jpg 【2】県道沿い「子育呑龍上人」看板からも舗装路を通って自動車で境内に進入可能。
大光院_3.jpg 【3】看板からの舗装路の突き当たりは未舗装の境内駐車場で、付近に身障者用トイレもある。
大光院_4.jpg 【4】身障者用トイレ内部(手すり・通報装置・便座)
大光院_5.jpg 【5】駐車場からそのまま境内に移動でき、石畳の参道のほかは薄く玉砂利が敷かれて平坦である。
大光院_6.jpg 【6】大光院の開山堂付近。参道は石畳で正面が階段のため賽銭箱や授与所がある堂上までは進めない。
大光院_7.jpg 【7】回廊をくぐって右手に弁天社。左手は呑龍上人御廟に進む道だが階段が続いている。


大光院境内図

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境内配置図 [凡例]
本堂 開山堂 方丈(大方丈・小方丈) 庫裏 水屋 鐘楼 臥龍松 吉祥門 弁財天女社 甘露水 源次兵衛の墓 新田義重公御廟 呑龍上人御廟 墓地 絵馬堂 大光院幼稚園 トイレ 呑龍公園 大光院北駐車場 「子育呑龍上人」看板 群馬県道321号金山城址線 群馬県道2号前橋館林線 金山城跡 太田駅

移動のしやすさ

★★★★☆

バリアフリーの状況

大光院は金山城跡に向かう県道沿いに位置し、途中に民間の有料駐車場や市営無料駐車場もあるので惑わされてしまうが、実は境内に車で入れるので近くまで寄せたほうがよい。境内は参道が石畳となっているがほかは薄く玉砂利が敷かれ、おおむね平坦となっている。ひときわ目立つ開山堂は鉄筋コンクリート造で正面が階段なので、堂の上までは移動できない。身障者用トイレは県道沿い「子育呑龍上人」看板から入った先の呑龍公園内、庫裏の向かいにある。

周辺の名所・観光スポット

史跡金山城跡ガイダンス施設

史跡金山城跡ガイダンス施設は、新田金山城の歴史を紹介するとともに、来訪者の憩いの場とすることを目的として、平成21年(2009)に金山山麓に開館した太田市の文化施設で、建築家の隈研吾が設計した石垣をイメージさせるユニークな外観を持つ。施設内には金山城のジオラマや出土品の展示があるほか、火起こし体験教室・勾玉づくり体験教室なども行っている。新田金山城は由良成繁・国繁親子らが拠点とした金山に建つ戦国時代の山城で、従来の定説を覆す本格的な石垣の遺構が発見されたことで知られる。虎口の石垣や大手道、日ノ池・月ノ池、桟道などが復元されているほか、実城(本丸)跡に新田義貞を祀る新田神社が建つ。
【身障者用駐車場・トイレ・スロープ、エレベーターあり。身障者に限らず誰でも無料。】

■参考リンク:史跡金山城跡ガイダンス施設・太田市金山地域交流センター

このページの執筆者
@tabisora110