大中寺
大中寺は、栃木県下都賀郡大平町にある曹洞宗の寺院です。上杉謙信との縁故により伽藍が整備され、永禄11年(1568)に謙信が北条氏康と和議を結んだのもこの寺院といいます。江戸時代には「関東僧録司」(関三刹)の一つとなる有力寺院でした。上田秋成の『雨月物語』にもこの寺院が登場するほか、境内には「根なしの藤」をはじめとする「大中寺の七不思議」が存在します。
旅行先の地図
旅行先の概要
御本尊 | 釈迦如来 |
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所在地 | 栃木県栃木市大平町西山田252 |
交通 |
東北自動車道「佐野藤岡IC」から車で約15分 JR栃木駅南口からふれあいバス(岩舟線)経由で約15分、「大中寺入口」停留所下車、徒歩約10分 |
拝観料 | 無料 |
駐車場 | 境内下に砕石を敷いた無料市営駐車場(30台)あり |
URL | 栃木市観光協会>大中寺 |
連絡先 | 大中寺 0282-43-2116 |
歴史・由来
大中寺は、栃木県下都賀郡大平町にある曹洞宗の寺院です。
もとは久寿元年(1154)に真言宗の寺院として創建されたと伝えられますが、延徳元年(1489)、小山成長が開基となり、快庵妙慶を開山に招いて曹洞宗の寺院として再興します。
戦国時代、大中寺第6世の地位を巡って無学宗棼と快叟良慶が争う事態となり、寺は分裂して今の大平町榎本地内にも新たな大中寺が建立されて無学が住持となり、もとの大中寺は快叟が継ぐこととなりました。
こうした経緯でもとの大中寺は荒廃しますが、越後の上杉政虎(謙信)が関東管領として関東地方に進出すると、快叟が謙信の叔父にあたることから伽藍を寄進され、永禄11年(1568)には謙信が北条氏康とここで和議を結んでいます。
江戸時代には下総総寧寺・武蔵竜穏寺と並ぶ「関東僧録司」(関三刹)の一つとして全国の曹洞宗寺院を支配する有力寺院であり、将軍家から寺領100石を与えられ、江戸の三田にも宿寺の天暁院を設けていました。
上田秋成の『雨月物語』には、大中寺に伝わる話をもとにした、亡くなった童児を愛するあまり死肉を食べて鬼と化してしまった僧侶の怪異譚が「青頭巾」と題して記されています。
ほかにも「大中寺七不思議」として、根無しの藤・油坂・枕返しの間・不断の竈・馬首の井戸・不開の雪隠・東山一口拍子木にまつわる伝説が残っています。
大中寺七不思議
「根無しの藤」快庵和尚が人食い鬼と化した僧侶の頭を叩いて成仏させた杖が根付いたものという。
「油坂」油を盗んだ学僧が逃げる途中で転落死したので通ると良くないことが起きるという。
「枕返しの間」旅人が本尊に足を向けたまま寝るといつの間にか頭が本尊を向いていたという。
「不断の竃」竃の中で学僧が居眠りをしているのを知らずに寺男が火をつけて焼け死んだことから、以後はこの竈の火を絶やさないという。
「馬首の井戸」戦に破れた佐竹小太郎(晃石太郎)が寺に匿ってもらえないのを恨み馬の首を斬って井戸に投げ捨てると自刃して果てたが、以来井戸から馬のいななきが聞こえるという。
「不開の雪隠」佐竹小太郎の妻が雪隠(便所)に隠れて自害したことから、以来戸を開けることがないという。
「東山の一口拍子木」寺の東のほうにある山で拍子木の音が聞こえると寺に異変が起こるが、その音は住職しか聞こえないという。
車椅子で旅行するポイント
本堂 枕返しの間 庫裡 不断の竈 開山堂 墓地 おとら様の墓:戦国武将皆川広照の孫娘の墓。 根なしの藤 油坂 不開の雪隠 馬首の井戸 東山一口拍子木 地蔵堂 山門 公衆トイレ |
移動のしやすさ
★★★☆☆
バリアフリーの状況
大中寺は公道から見てかなりの高低差があり、正面の参道は途中まではインターロッキング舗装の坂道だが、それ以降は長い石段が続いている。そのため、右手の墓地がある方向の公道沿いに山上に至る車1台幅の舗装路の入口があるので、ここから進入することになる。
ただし、墓地や寺院に用事がない車両は通行禁止のほか、かなりの急傾斜で「山門」脇と「不開の雪隠」前以外に転回可能な平坦地がないので注意のこと。
「不開の雪隠」からは横に本堂に至る歩道が延び、本堂正面で油坂と合流する。本堂脇には「根なしの藤」がある墓地へと続く未舗装道がある。
周辺の名所・観光スポット
蔵の街市民ギャラリー
「蔵の街市民ギャラリー」は、かつて日光例幣使街道の宿場町として、また巴波川(うずまがわ)の水運の拠点として栄えた「蔵の街」である栃木市を代表する建物のひとつ、築約200年という「善野家土蔵」、通称「おたすけ蔵」をリニューアルした展示施設です。「アートフェス栃木」をはじめとして、市民による油絵、書道、彫刻、織物などの展覧会が随時開催されているほか、チャレンジショップの区画も設けられています。
【身障者用トイレ・エレベーターあり】
■参考リンク:蔵の街市民ギャラリー