小御門神社
小御門神社は、千葉県成田市にある神社で、建武中興の際に後醍醐天皇の身代わりになるなどして活躍した藤原師賢公を祀ります。後に幕府に捕らえられて下総国に配流され、この地で薨去したため、境内に「公家塚」と呼ばれる墳墓が残ります。明治時代に南朝方の忠臣を顕彰する目的で創建された「建武中興十五社」のひとつです。
旅行先の地図
旅行先の概要
御祭神 | 藤原師賢公 |
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所在地 | 千葉県成田市名古屋898 |
交通 |
首都圏中央連絡自動車道「下総IC」から車で約10分 JR「滑河駅」から成田市コミュニティバス(しもふさ循環ルート)経由で約15分、「小御門神社前」停留所下車 |
拝観料 | 無料 |
駐車場 | 正面鳥居前に舗装済の、参道脇に未舗装の無料駐車場あり |
URL | 小御門神社 |
連絡先 | 小御門神社 0476-96-0449 |
歴史・由来
小御門神社は、千葉県成田市にある神社で、建武中興の際に活躍した藤原師賢公を祀り、明治時代に創建された南朝方の忠臣を祀る「建武中興十五社」のひとつになっています。
大納言藤原師賢(もろかた)公(花山院師賢)は、元弘元年(1331年)の「元弘の変」の際に後醍醐天皇の身代わりとなり、御衣を身に着け腰輿に乗って比叡山に登り、六波羅探題の軍勢を迎え撃ちますが、その間に後醍醐天皇は皇居を脱出して笠置山に逃れます。
しかし替え玉であることが露見して比叡山大衆の支持を失ったため、再び下山して笠置山の後醍醐天皇と合流するものの、笠置山陥落後に捕らえられ、元弘2年(1332)に下総国の千葉介貞胤に預けられることが決まります。
『太平記』ではこのときの心境を「主憂るときは臣辱る、主辱るるときは臣死すといへり。縦ひ骨を醢(ししびしお)にせられ、身を車ざき(車裂き)にせらる共、傷むべき道に非ず」と伝えていますが、同年10月に病を得て配所の下総の地で薨じ、後に太政大臣を追贈され「文貞公」と諡(おくりな)されます。
文貞公墳墓の地は長らく不明でしたが、江戸時代の享保年間に佐倉藩の儒者・磯辺昌言が『佐倉風土記』を編纂するにあたり、この場所の地名が「小御門」で里人が「公家塚」(または「大六天塚」とも)と呼ぶ古塚があることに注目したことが契機となり、その後も伊能穎則(いのうひでのり)の『文貞公事蹟考』や清宮秀堅(せいみやひでかた)の『文貞公墳墓考』に考証が引き継がれます。
そこで尊皇を掲げる水戸藩主・徳川斉昭が藤田東湖に命じて公家塚に墓碑を建てようとして実現せず、江戸幕末から明治にかけての時期に「藤原文貞公碑」が建碑されています。
明治10年(1877)には地元の香取郡名古屋村の沢田総右衛門(後に小御門神社宮司となる)らの上表により神社の創建が決まり、明治15年(1882)に「公家塚」の前に社殿が造営されて当時の社格で「別格官幣社」に列し、以後は「小御門神社」として身代わり・学芸・回復の御神徳で崇められています。
「公家塚」周辺は里人の畏怖により誰も立ち入らなかったことからタブの自然林が繁茂し、神社造営のときに植えられた樹木からなる人工林もこれと調和して自然林に遷移しており、貴重な事例として千葉県天然記念物「小御門神社の森」に指定されています。
車椅子で旅行するポイント
拝殿 本殿 手水舎 社務所 神庫 公家塚(文貞公墓所) 第1~第3駐車場 旧小御門小学校 成田警察署名古屋駐在所 小御門郵便局 JAかとり小御門支所 千葉県道79号横芝下総線 小御門神社前バス停 |
移動のしやすさ
★★★☆☆
バリアフリーの状況
小御門神社は県道のカーブ沿いに建ち正面鳥居前が舗装された駐車場となっている。ここからは2段ほどだが石段があるので境内の第2駐車場に迂回する。参道は地面が出ているが雨天でぬかるんでいなければ移動は可能。瑞牆の前に若干の段差はあるがそのまま社頭まで入れる。多目的トイレは第2駐車場入口にあるが2017年11月時点では故障で使用中止だった。
周辺の名所・観光スポット
千葉県立房総のむら
「千葉県立房総のむら」は、房総の伝統的な生活様式や技術を体験しながら学習するとともに、千葉県内で出土した考古資料や江戸時代の商家・農家・武家屋敷の町並みの復元展示などを通じて地域の歴史文化への理解を深めるための博物館施設です。敷地内には印波国造が造営したとみられる114基からなる龍角寺古墳群、方墳としては桝山古墳に次ぐ全国最大クラスの国史跡岩屋古墳が含まれるほか、風土記の丘資料館では埴輪などの出土品が見られます。
【多目的トイレ(オストメイト対応)・身障者用駐車場・スロープ・車椅子貸出あり。障害者手帳提示で本人および介助者1名無料】
■参考リンク:体験博物館 千葉県立房総のむら