宮原八幡宮
宮原八幡宮は、栃木県那須烏山市に鎮座し、平安時代に征夷大将軍・坂上田村麻呂が筑紫山に勧請したのがはじまりと伝える神社で、戦国時代に烏山城主の那須資実が城郭を拡張した際に現在地に遷座したといいます。那須家は江戸時代には改易され、その後烏山藩は大久保家が明治維新まで支配しますが、歴代の藩主からも崇敬を受けており、近代社格制度のもとでは郷社に列しています。那須資胤が寄進した扉が残る本殿は栃木県指定有形文化財です。
旅行先の地図
(この地図の緯度:36.657269, 経度:140.169049)
旅行先の概要
御祭神 | 誉田別命 |
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所在地 | 栃木県那須烏山市宮原578 |
交通 |
JR烏山駅から市営バス(烏山高部線)経由で約5分、「八幡宮前」停留所下車 北関東自動車道「宇都宮上三川IC」から車で約50分 |
拝観料 | 無料 |
駐車場 | 境内南側に舗装済みの無料駐車場(普通車15台)あり |
URL | 栃木県神社庁>宮原八幡宮 |
連絡先 | 宮原簡易郵便局(齋藤宮司宅)0287-82-2776 |
歴史・由来
宮原八幡宮は、栃木県那須烏山市に鎮座する神社です。
平安時代初期の延暦14年(795)または大同2年(807)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際にその勝利を祈願して、神職の斉藤左衛門太夫宗隆に命じて豊前国から宇佐八幡宮を筑紫山に勧請させたのがはじまりといいます。
戦国時代の明応2年(1493)、那須家当主で烏山城主でもあった那須資実が烏山城を拡張して二の丸を造成するにあたり、当時本丸にあった八幡宮を琵琶の原と呼ばれていた現在地まで参道を設けて遷座させ、遷座後に地名が宮原と呼ばれるようになります。
その後那須家は改易となり、江戸時代の烏山藩は大久保家が明治維新まで支配しますが、引き続き歴代藩主の崇敬を受けて社殿の修理などが行われているほか、明治以降の近代社格制度のもとでも烏山町、境村、七合村および向田村の郷社に列せられています。
朱塗りの三間社流造の本殿の内陣には、永禄3年(1560)に那須修理大夫資胤が寄進した極彩色の彫刻が施された扉が現存し、建築様式から本殿自体もこれに近い時期のものと見られており、栃木県の有形文化財として指定されています。
また、江戸時代のこの地域では畑作の年貢は米納する決まりになっていましたが、幕末開港以来の米価高騰に苦しみ、烏山藩庁に金納に切り替えるよう嘆願したものの果たせず、明治維新後も引き続き新政府の弾正台に訴えたものの、逆に百姓惣代が流刑などの刑罰を宣告されて辛酸を嘗めた歴史があります。
やがて地租改正によって従来の税制が一掃されたことから、明治35年(1902)に往時の労苦を偲んで「圃租法変更記念碑」が宮原八幡宮の境内に建てられ、これが現在でも残されています。
車椅子で旅行するポイント
本殿 拝殿 御神馬殿・小供御輿殿 古札納所 開運甲子大黒:大黒天を祀る。 神楽殿 圃租法変更記念碑 夫婦木神社 和合樹 子抱椿 足乳根之樫 曽孫杉 兄弟杉 手水舎 石灯籠:烏山は和紙の名産地だったことから明和5年(1768)に江戸紙仲間の村田儀兵衛らが寄進。 社務所 鳥居 宮原簡易郵便局(宮司宅):社務所不在時の御朱印対応。 参道(馬場):城跡近くの筑紫山に向いている。 八幡宮前バス停 国道293号 国道294号 栃木県道29号常陸太田那須烏山線 烏山市街 清水川公園 |
移動のしやすさ
★★★☆☆
バリアフリーの状況
宮原八幡宮には南側バス停からの階段は避けて、自動車で直接境内の駐車場まで進入する。多少の段差箇所はあるが、基本的には平地で鳥居以降の境内参道には玉砂利が敷かれている。拝殿付近だけは石畳で舗装され、賽銭箱前は2段ほど高い。身障者用トイレは近場であれば県道を1キロ西側に行った先の清水川公園が使える。もっともここまで来れば山あげ会館や那須烏山市役所烏山庁舎などの身障者用トイレにも比較的近い。
周辺の名所・観光スポット
山あげ会館
ユネスコ無形文化遺産にも登録された「烏山の山あげ行事」をテーマとした資料館。館内では山あげ祭に使う本物の屋台が常時3台展示されているほか、ミニチュア芝居と人形ロボットによる訛まじりの解説、大画面によるハイビジョン映像などで迫力ある山あげ祭の魅力を伝える。
【身障者用駐車場・トイレ(オストメイト対応)・エレベーターあり。障害者手帳提示で無料】
■参考リンク:山あげ会館