護国寺

2016年9月2日寺院

護国寺は、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉が、その生母・桂昌院の願いを聞いて創建した寺院で、如意輪観音を本尊としています。本堂は江戸時代の元禄年間に建てられたもので、国重要文化財として指定されています。護国寺に隣接する豊島岡墓地は、かつては境内地であった場所で、明治以降の皇族の墓所となっています。

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旅行先の地図

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旅行先の概要

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御本尊 如意輪観音
所在地 東京都文京区大塚5-40-1
交通 東京メトロ有楽町線「護国寺駅」すぐ
首都高速道路5号池袋線「護国寺出入口」すぐ
拝観料 なし
駐車場 境内に舗装された無料駐車場あり【本坊に連絡のこと】
URL
連絡先 大本山護国寺 03-3941-0764

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歴史・由来

護国寺は、東京都文京区にある真言宗豊山派の大本山(総本山は長谷寺)です。

江戸幕府5代将軍の徳川綱吉が、その生母・桂昌院の願いを聞いて、天和元年(1681)に薬草を栽培していた「高田御薬園」を廃園にして創建した寺院で、桂昌院が帰依していた大聖護国寺(群馬県。上野國一社八幡宮の別当寺)の亮賢を招いて開山とし、桂昌院念持仏である如意輪観音を本尊としています。

護国寺には将軍綱吉もたびたび参詣しており、当初は寺領300石の寄進を受けていましたが、後には徳川将軍家の祈願所として、寺領1200石の大寺院となります。

また、筑波山知足院(今の筑波山大御堂)の江戸別院で、徳川綱吉に「生類憐れみの令」を進言したとされる隆光が住職を務めたことのある神田の護持院が享保2年(1717)の大火(小石川馬場火事)により焼失すると、従前の境内地が火除地とされたため、護持院は護国寺の本坊の建物に移転し、明治時代まで同じ境内に併存するところとなり、護国寺の住職は護持院と兼ねるようにもなります。

明治時代になると、徳川将軍家の後ろ盾を失った護持院は護国寺と合併するとともに、境内地の半分を割いて皇族のための豊島岡墓地がつくられるようになります。

現在、護国寺境内に残る本堂は、元禄10年(1697)建立のもので、桃山時代のものとされる園城寺日光院客殿を移築した月光殿とともに、国の重要文化財に指定されています。

また、護国寺境内の本堂裏のほうにある墓地には、明治の元勲である山県有朋、大隈重信、三条実美らが眠っています。

車椅子で旅行するポイント

gokokuji_temple_1.jpg 【1】護国寺正面の仁王門。車両も仁王門を避けて左側を通行できる。この付近はアスファルト舗装済み。
gokokuji_temple_2.jpg 【2】護国寺境内には惣門、宗務所周辺などにいくつか舗装済みの駐車場がある。
gokokuji_temple_3.jpg 【3】護国寺不老門への参道は石階段。門の左側に車両用の舗装された坂道があり迂回できる。
gokokuji_temple_4.jpg 【4】坂を登って護国寺境内の多宝塔・月光殿付近。玉砂利が敷かれ駐車スペースになっている。
gokokuji_temple_5.jpg 【5】護国寺本堂。参道は平坦な石畳。ただし車椅子は堂の階段下まで。歩行可能なら階段上って堂内で参拝できる。


護国寺境内図

移動のしやすさ

★★★☆☆

バリアフリーの状況

表参道は不老門から石階段があるが、自動車であれば石階段の上の境内に移動できる迂回路があるので参拝は容易。ただし、車椅子のままでこの坂道を登るのは、斜度がきついのでなかなか難しい。

周辺の名所・観光スポット

六義園(りくぎえん)

六義園は、元禄8年(1695)に5代将軍・徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保が江戸下屋敷に築いた回遊式築山泉水庭園で、柳沢吉保みずから設計をしたとされています。明治時代には三菱の創業者である岩崎弥太郎が購入し、その後は当時の東京市に寄付され、一般にも公開されるようになりました。現在は国の特別名勝に指定され、特にツツジの名所として知られています。
【多目的トイレあり。苑路は玉砂利が敷かれているが車椅子移動可。障害者手帳所持者および付添人無料】

■参考リンク:六義園

このページの執筆者
@tabisora110